まあるとママの田舎暮し日記

信濃国の里山に住むチワワと家族の物語とママの呟き!

私のプロフィール〜改めましてのご挨拶!

私の生い立ち、善光寺産

生まれは


東京オリンピックの翌年(中森明菜ちゃんと同学年)に長野市内の病院で生まれ、幼少期は、善光寺さんのお膝元の小さなアパートで育ちました。善光寺さんは、よく連れていかれたみたいで、鳩にいじめられて、それ以来、鳥類嫌いになりました。この頃の記憶が今でも有ります。銭湯に通った事、銭湯でお風呂上がりに買ってもらうヨーグルトが美味しかった事、でもいつも一個食べ切れなかった事などですけど。きっと楽しい時代で忘れられない思い出なのでしょうね。私が2歳の時妹が生まれて居ますので、妹もここに少しの間住んで居たのだと思いますが、妹の出生地はここではないのですよね。色々事情が有ったのでしょう。

幼少期〜学歴

その後、祖父の病気の為、父の実家に引っ越し、弟が生まれます。保育園から高校まで田舎暮し、高校卒業後に上京、服飾系の専門学校に通ながら、縫製会社に就職、しかし、どうしても田舎が恋しくて、1年程で長野に戻ってしまいました。(あの時、もうし少し東京に居たら、運命も変わっていたのでは?)

パパとの出会い


長野に帰って就職した会社で、仲良しグループの友達の友達にパパが居ました。私の一目惚れ!優しそうな瞳にすっかり騙された20歳です(笑)交際一年で結婚、22歳の年でした。それから今年で31年!!!銀婚式なんてとっくの昔の事ですよ。(もう少し遊んでから結婚すればよかった^^;)後悔先に立たず!!

不妊治療



結婚から1年経っても子宝に恵まれず、不妊治療開始、最初は漢方薬で体質改善と言われて、「実母散」の様な味の臭〜いお薬飲まれましたが、一向に…。

卵管造影やら排卵誘発やら色々やりましたよ。私の卵巣に問題があって様で、色んなお薬飲みましたね。飲むタイプの誘発剤は、激しい吐き気を伴うものでした。

そして、待望の妊娠、4週目で袋が見えてでは、次6週目にと言われ、受診するも、

「赤ちゃんの心拍が確認できませんね、育って居ません」

やっと出来たと思った赤ちゃんなのに、辛い現実でした。

そんな事を6回も繰り返し、7度目の妊娠は、やっと心拍も確認できる位までこぎつけ、医者もこれが最後のチャンスかもしれないと、安定期に入るまで入院して静養。歩行は禁止にはならなかったのでトイレと週2回のシャワーは🆗でしたね。

入院中は毎日点滴。でも私、血管が細くて針がなかなか刺さらないし、最後は、針をさせる所が無くなり、手の甲から入れてましたね。

安定期に入って一時退院、そして、8ヶ月に入る頃、張りがひどくて再入院。絶対安静。38週過ぎて、もういつ産まれても良いからと退院。しかし40週過ぎても陣痛来なくて、41週目にやっとおしるしがあり病院へ。

長男誕生



少し難産でした。出て来ないと、私も安静生活だったので体力無し、医師がお腹を押してこれでもダメなら帝王切開に切り替えるかという時、スルスルと降りて来て無事産み落としました。可愛い男の子でした。本当に本当に可愛かった。
結婚7年目にやっと授かった我が子。しかし、2人きりの時間が長かったから、100%パパに向いてた私が、子供に80%パパに20%くらいの割合になっていきます。どこのご家庭でもそうでしょうけど、その事が、パパには不満だった様です。

我が子は可愛い、でもママが子供にかかりきりですからね。(笑)

次男誕生


不思議な事に次男は自然妊娠で、安静の必要もなく、出産の当日まで長男と散歩してて、夜中にポンと産まれました。長男誕生から2年後の事です。これで、パパに向けられる割合はさらに減り、子供達に90%。パパに10%位でしょうか?なので喧嘩も増えて行きます。

夫婦喧嘩の5割以上が、子育てに関係するのではないかと思います。現に、今、子供達が居なくなった我が家では、喧嘩するネタも無くなりましたから。

まあるを迎える



2人共巣立った子供達。彼らが居なくなった我が家にまあるがやって来ました。その辺は次回、書くことにいたします。

今日はこの辺で、

では、またヾ(๑╹◡╹)ノ"

最後はまあるの画像で


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